メディアは、表現の自由を言うことがありますが、メディアは、性質上、街頭演説に近いです。よーするに、メディアを考える上で、想定すべき軸の方向は、表現の自由があるべきか否かの軸で語るのではない。古来、ギリシャ以来の街頭演説に関するモラルの軸の方向で考えるべきです。表現の自由は、ひとまず脇において考えないことにしましょう。
メディアは、大抵の場合、マス化、大衆化、大集団化することが多く、そして、メッセージが、一方通行です。それは、古来、ギリシャ以来の、街頭演説に近い。そのモラルは、流用する一考に値するのではと考えます。ベクトルが、表現の自由の方向ではなくて、街頭演説のモラルの方向で考え、語るべきではないでしょうかということです。
絵画も、音楽も、メッセージという意味で、この範疇に含まれると考えます。
追記。
少し調べまして、メディアリテラシーという言葉は、自分の言いたいことではないのかも・・と考え、意味をもう少し調べましたら、どーも翻訳、解釈がおかしいのかなあ…?リテラシーてのは、どーやら言いたいことは、その物事の理解を、正確に理解して、理解の上で適切に利用する、という意味のようですね・・コントロール、自分たちが考えた通りに、うまく適切に利用するには、それの性質を正確に理解する必要があります。機械なら操作マニュアルをすべて暗記して、一通り操作方法のとおりに操作して、できるようになると、場面ごとの適切な利用ができます。それを例えば物理学でするような、そーゆーことを言っているのではないのでしょうか?
この場合は、マスメディアの性質ですね。こーゆーことかなあ…それだと、この場合は、メディアリテラシーという言い方であっているのかなあ…合っているなら、メディアの性質は、メディアとは、往々にしてマス化しやすく、それは、古来ギリシャの時代から言われている、街頭演説のモラルに近い、と考えますが…
モニターや、機械、紙媒体、家庭用ゲーム機、など、虚飾を取り払い、シンプルに考えますと、情報発信者が、多くの人に対して、一方的に、情報発信者の言ってることを得る。そーゆーことになります。もっとも、演説は、先の例のような媒体と違い、ヤジなどが言えますが。
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