時代が進むというのは、新たなテクノロジー、新たな社会の枠組み、そんなことでしょうけど、時代が進んだからなんだというのでしょう?あんまり意味がないのでは?
こーゆー論説、わからないでしょう?新しいものを求めて、とにかくす進む。それでいいはずでは?人とはそーゆーことをするものでは?ということであろうかと考えますよ?
しかし、ここでは違うアプローチです。アプローチが違うのです。
意味があって進むならいいでしょう。食べるものにも困る時代、テクノロジーが進んで未来を扱った小説のようになればいいのに。それなら意味がある。幸福を求めているからです。
しかし今は・・その頃の余波。
さて、では求めなくていいのでしょうか?新たな時代を。
それで持論なのですが、すべての人々が、幸福を享受できる。ここへ向かう。
それならこの場合の、時代を進めるということを、求めるのもいいでしょう。
ただ漫然と、高みを目指す目的と、新規性とは漠然といいものだという考え方ですと、いびつな発展の仕方をして、防御にもなるようなテクノロジーやイデオロギーや、法や人の考え方、モラルなどが未発達のせいで、社会が混乱することになりかねません。人って叱らないと、はみ出す人がいるんですよ。
だから、何に対して発展するのか?ということを設定し、ここでは、全ての人々が、幸福を享受できるために発展する・・という方向性なら、発展してもいいのではないか?と設定します。
まあ応用的な考えは必要です。応用的な考え方というのは、資源とかですね例えば。自然は、自分らとは関係ないのですが、いずれ枯渇するという研究結果を発表しています。しかしそれは、そーゆ-研究結果を発表している研究者がいるから、啓蒙となり、それを喧伝して警鐘を鳴らしたほうがいいと考える国政の人達がいるから、だから社会に住む一般市民の、無意識の一般常識となっているから、だからそんなの当たり前と、市民が言ってくれるのですけど。
しかし、それがない場合、自分とは関係ないというスタンスで、未来を考えず、自分の幸福と言って目先の利益だけで行動して、結果枯渇し、やはり、すべての人々が幸福を享受できるということを求めているつもりでも、その条件の違反に、間接的に抵触するというようなことになりかねず、ですから、応用的?間接的?という方向に対しても、この考え方の論理で注意を払う必要はあります。
話を戻します。
先の時代へ、時代をすすめること、それを目的にするのではなく、
すべての人が幸福を享受できる状態、ここを目標としてそちらへ向かう。
そのために必要な時代の進めるということは、目指して悪いことは、どーやら、無さそうです。
便利であること。
快適であること。
貧困に困らないこと。
安全であること。
このためにテクノロジーや新たなイデオロギーを求めることに限れば、まあ、問題なさそうです。資源や軍事など、この考え方の応用的な考え方で注意を払うべきことを落とさないようにしながらですけれども。
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